日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

恋人のような錯覚に陥る。

2020/04/26

 

朝、佐藤yuupopicさんの「そばかすサンデーモーニング」という詩にギターを入れて音源を作ってみた。優しさや気怠さ、微睡み感と言えばいいのか、シンプルでいいものになった。自分で聞き返してしまう。そして、ジャケットがとても気にいっている。(雰囲気に合ういいジャケット、ご提供、感謝です)

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午後、娘を抱っこするのに、長い時間を費やした。nujabesさんの曲を流して、少し身体を揺らせば泣き止む法則を発見した。こちらもただ好きな音楽を聞いて揺れているだけなので、ずっとできる。将来、ナイトクラブに出入りするようになる気しかしない、よし、一緒にいこう。

 

しかし、子どもというのは、こんなにずっと目をみてくる生き物なのか。長時間にわたって、人と目を合わせるなどなかなかない。誤解を生む表現なのかもしれないが、恋人のような錯覚に陥る。どこか甘酸っぱさみたいな感覚が芽生えて来ている気がする。朝に聞いた詩に影響を受けていることは確実。

 

最近、詩の方と触れる機会が多い。あふれた瞬間にメモとして言葉を残しているけど、自分には一体、何が書けるのだろう。生き物は生命維持に必要なものを記憶しやすいが、詩はどうして生まれるのだろうか。

 

どう過ごそうと、何を考えようと、夜がくればまた疼く。

何かあったような、なんでもないような日に書けるのか。