日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

理解を失うと、途端に強烈な印象を与える。

2019年08月22日

 

壁に向かって人間が歩く。壁と接触しているのに、その方向にさらに進もうとする。意味不明な行動である。ドラゴンクエストにおいて、壁と同方向に十字キーを押した経験が蘇る。周囲にいる全員がその行動を取ると仮定する。それを見た人間は、「理解」と「共感」を失う。例えば駅構内においては、どこかに向かって歩いている、という「理解」が前提として存在している。また、それは裏からみれば制御である。どこかに向かって歩くのである。

  
こういった「理解」を意識的に破壊するのは(羞恥心がない場合)、行動としては容易い。例えば下記がある。


・その場から移動せず、縦に飛び続ける

・腕立て伏せを始める


なぜ、このような奇妙で当たり前の話をしたのか。それは、ある芸術作品を拝見したからである。顔が全く見えない複数の人が裸でいる絵だった。顔が見えないというのは、顔自体を細工しているわけではなく、棚の中に顔を突っ込んで隠したりしているのである。決して、身体の可動領域がおかしくなっている絵ではない。


理解を失うと、途端に強烈な印象を与える。

そう思い書き残した。

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