日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

蒔いた種の分しか、花は咲かない

 

私は「完全な善人も悪人もいない」説に結構賛同しています。
人間の性質には同じ個体というのもあり、あまり差がないのではないかと思う。

変な例えだけど、自分の好きなアーティストがライブ後、フロアに降りてくると、「わっ、◯◯さんや」となる。それは権威主義でもなくても、テレビでよく見る人を見かけると、起こりうる現象。 

裏からいえば超有名人であろうと、その人のことを全く知らないと、その人にはよるけど、印象は「かっこいいお兄さん」とか「強烈な人や」とかになるわけです。つまり、普段、電車で見る名もない人になるわけです。

 

その人の中の分類により、個人の価値は変化する。有名という幻想をみている、というのは、仕組みから見ればその通りです。プロモーションからみればそれは”演出”という言葉に含まれるわけです、

 

しかし、主観に置き換えると話が変わってくるように思う、結論から言うと精神性はおもてにあらわれる、という信念かもしれないが。けっきょく、蒔いた種の分しか、花は咲かない。全然話が飛びますが、選択肢は多いほうがいい、つまり視野は広いほうが、本人が良かったって思える確率は高いように思う。

 

親が「大学は行っときなさい」というのも、なるべく視野を広げようとしてくれていることだと思う。単純に視野が広い方が、狭いより自殺をする人も減るのではないか。

幸福は絶対的な価値ゆえ、勝手な判断はできないが、今より良い方向に進みたいと思っていない人はいないと思う。

私は不幸も、幸せを求めた結果と考えている。
(志人さんの歌の一節ではないが)、悪くなるために生まれてきているのではなく、その道中で悪くなることもあるのではないかと)

 

煩雑な語りになりましたが、そういう「視野の広さ」をせっかく人間に生まれたから伝えていきたい、揺れてばっかりだけど、そんな志で生を全う。

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