「反問ゆえの煩悶!?」世の中をどうみれば
「反問ゆえの煩悶!?」世の中をどうみれば
ちらっとつけたテレビで。好きなことは外的要因により成り立っていると、番組の企画のニートとの対談で林修さんがおっしゃっていた。すごく腑に落ちた。
様々な経験の上、林修さんはできること(ニーズを満たす行為)に、つまり、資本主義に参加する道を選ばれた。
好きなことを書いた本が売り上げ的にコケたという話をし、プロは一度失敗したら二度とやってはいけないという話をしていたような。
仕事は「やりたいこと」より「できること」で選ぶ 林修が高学歴ニートにレクチ https://t.co/R4N8BqlTe1 @キャリコネニュースさんから
— 笹谷創/objective-Saw (@sasataniso1990) 2019年1月15日
同意するところは大いにあり、説得力もある。
また、創作(創るということ)は余剰にあり、そこに興味がある、という話を最近聞いた、まさにと思うところあり。余剰こその美学と感心していると・・
また、別日、移民の話を聞いた。
Vol.05 遭難、殺人、レイプ…なぜ難民たちは命がけで地中海をわたり、欧州を目指すのか|国境なき医師団「国境がないって、ホント?」 https://t.co/zZZeNef9kr
— 笹谷創/objective-Saw (@sasataniso1990) 2019年1月15日
移民するのにも、命がけ。日本が経済的に裕福であるのは、誰もが知るところ。ゆえに、余剰が作品を生んでいるのか、と、思えば、余剰どころではない場所では、芸術は生まれないのか、と疑問を持ったり。
今の自分はきちんと形にできたものを入手できる。つまり、パッケージされた音を聞いている。耳が聞こえる限り、もちろん、咀嚼音や歩く音など、音は聞こえる。それらを形にするから後世に語り継がれる作品がうまれる。
形に残すことは余裕がないとできない行為なのか。
録音する仕組みがないと、二度と聞けない。(反復できない)
しかし、そもそもそれどころではなかったりする世界もある。けど、音を一つのパッケージとする視点は何はなくとも生まれる気もする。
組み合わせ。人は自然をサンプリングし、技術として生かしたりしている。ただ、その視点を持てること自体に余剰があるかないか(貧富の差)が関係しているのかもしれない。
そんなことを考え、考え、思考があちらこちらに、ああ、倒錯気味。
全然、答えは出ずに・・。ユニークやユーモアを失わないように今日はスルメを噛みます。