親父の説法、「幸せの定義は熟睡できること」
親父の説法、「幸せの定義は熟睡できること」
今年もやってまいりました「親父の説法」、「ひとつゆうぞ」を二日間で十八回くらい聞きました。しかし、酒に酔っている中に箴言を見つけました。これからもこれまでも、素直さゆえに打つかることがあるかと思いますが、その芯の大切さを知れた気がします。
力のある人と過ごすとどうしても疲れます。ただ、その疲れは燃料みたいなもので、このお正月はその燃料をひたすら溜め込みました。感謝。
父親は幸福について次の言葉を残しました。「幸せの定義は熟睡できること」その人生観が含まれているような、様々な考えの極地にある言葉ではないかと思いました。酩酊の中の光明。
怒涛の三日間は過ぎ、東京へと戻ります。「血の繋がりは争えないものだ」と感慨に耽り、新幹線を待ちます。白い軍手のような手袋をした子どもは父親の後ろを歩いています。髪の毛を金に染めた若い女性は、「絶対似てへん」と言いながら隣の男性に笑いかけています。気がつけば新幹線は到着していたので、事前に購入した指定席へと向かいます。
一族や友の繁栄を願いつつ、新幹線の窓から外を覗きます。マンションのベランダに干された羽毛布団は日を浴び揺れていました。旅の始まりを盛大に祝ってくれているようでした。
ふと思った
ふと、帰って来た思った。
「家族」というのは最初の社会参加のように思う。家庭環境が悪いと最初の社会参加が行われていない状態。そのまま実際の社会に放り込まれてしまう、というのは・・様々な問題のかなり根本にあるように感じた。自分の場合は、たまたまその機会があったものの、ない場合はやはり擬似的であっても作らなければならないような面持ちになった。今は自分のことや周囲のことにまでしか届いていないけど、なんか、そんなことを強く思った。