日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

本は悲しいぐらいに立派なお友達です

 久しぶりに本を

 

久しぶりに本を読んだ。

ぼっーと違うことを考えていて、時間がすぎる現象に出会いつつ、久方ぶりの文字の再会にココロオドル。執筆や音楽の技術を向上させるためには、暗記から入って身体に覚えこませるのがいい。コードにしろ、専門用語、単語にしろ。
否、それが最短だとしても、どこか違和感を覚えるのはどうして。

 

良い音楽をするために音楽を学ぶ、美文を書くために漢字を覚える。疑いの余地なしなんですが、どうにも納得しきれず。それだとすでに目的が完結されている、ように思う。こちとら、もっと根源的な、心が文章や音楽を創っていると解釈しているのだから、と思ってしまう。

 

それとこれは話が別というのも納得できるのですが、目的がただ「それ」のみだと、大げさにいうと、機械のようになってしまいそう。人というのは失敗やスキャンダルに対して、好奇の目を開く。それが人間らしくもあり、ある意味では純と思っている。

人間の性質を考えた時に、精密すぎるものは、面白がれないのではないか、と思う次第。一時的にすごいとはなっても、技術に対する賞賛で、それは人間への賞賛なのかと疑ってしまう。

(その技術を身につけているのだから、技術の賞賛=その人間への賞賛とも取れますが)

 

本を読んでは抜け落ちている。
抜け落ちたけど、それは周囲にはある、その周囲にはあるということこそ、魅力を感じさせるのではないかと(自己擁護丸出しか!)

 

今日読んだ本に、読み書きができるのが当たり前やけど、これはとんでもない技術や!という旨のことが書かれていたり、大義名分や設定を利用し権力を得る理由(戦う理由)としていたというようなことも。国単位ではなく、立場や肩書きのある現実世界でもあるあるなのではないか、ストラテジー

と、本は色々抱え、書かれている。

久しぶりに読むとそんな感想を抱いた。本は考えることが整理されている、それをまた、読み取り、再構築する。そんな作業が脳内では行われているのか。

本は悲しいぐらいに立派なお友達です。

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