日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

似たような面持ちで似たような文章を何度も何度も綴る。

似たような面持ちで似たような文章を何度も何度も綴る

 

訪れる感情の起伏をいくつも乗りこなす。日々はいつも地道だから積み重ねる。未来と現在の中を浮遊する。地に足のつかないほど大きな目標と、痛くなるほど現実を直視。

希望的観測はなしにシビアかつ楽観的。最高を迎えた瞬間のハイタッチ、日々はさりげないゆえにドラマチック。憧憬したあの人に生き方を投影する。それは迷いであり、同じ箇所を回っていることもある。否、回っているのは同じでも場所は移り変わっている。 

 

そこを「前進」とする。頑な決意表明は息がつまり面白みに欠ける。それを前提としているから、根は固く葉は柳のようにしなやかに。いつの間にか時を年単位で捉えられるようになった。時間を捨て駒として描く。おおよそ、他とは違う。平らになる適応能力は著しく乏しい。山は登るのではなく作ると、そのための直視。圧倒的直視。カイジみたいになったけど、僥倖を迎えに。

 

意味の付け方は後も先もなく、どうにもこうにも甲にも乙にも収まらない。誰の勘違いでも凝視。似たような面持ちで似たような文章を何度も何度も綴る。精度は上がっているかの指標もなく、書き殴るという言葉が相応しい。書き殴れるのもひとつ価値があることだと。言葉で綴られた物語、装飾による美意識、日本語を使いこなすとは何なのだろうかと。「そうきたか!」とシンプルに感動する心が筆を上達させてくれる。

 

今日はもう眠ろう。明日もいい日に。みなさま・・おやすみなさい\(^-^ )

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