回廊日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

「回廊日記」 2021.03.13

『回廊日記』

 

ひげ剃りの角度のあやまりによるものか、無駄に勢いをつけたためか、はたまた、鋭利であることを忘れ気が抜けていたのか。

 

唇の真ん中の上あたりを切ってしまった。ティシュで抑えるものの血が止まらない。空気に触れていると微妙にヒリヒリする。今しかない、自明、ベストなタイミング、満を持して絆創膏の登場である。

 

真ん中の柔らかい部分に傷口を当てる。痛みは全くない。中学3年生の卒業写真を撮る際、ケガもしていないのに、唇と鼻の間に絆創膏を貼りだした中山くん、愛称チャー坊。周囲の目から見ると、その行動は若干、奇異に映っていたが、使用頻度があまり高くないせいもあり絆創膏を見る度に彼を思い出す。

 

絆創膏と中山くんが笹谷の中で結びつく。チャー坊と笹谷は絆創膏という一種の治療の際に奇しくも出会うのである。

 

「中山くんが肌に張り付いている」

 

それは言い過ぎである。かぎかっこを使用したあたりに反省の余地が完全にある。余地はあれど、その余裕やゆとりを無視して次に取り掛かる。その余りの部分を無視して自己解決をすると隙ができない。規定した中ですべてが起こるのであり、内(自己)と外(他者)に対する認識にギャップが生じる可能性が膨らむ。

 

あまりにも「余り」の方向に話が進みそうなので、触ってはいけないものを触り元の場所に戻す時のような気まずさを感じつつも絆創膏の話に。そう、唇の上の切り傷を隠す、誰もが一度は貼り付けたことがある絆創膏へ。

 

多くの人間がまず確認するであろう顔にしばらくそいつを貼る。

 

必然的に「この絆創膏について触れてもいいのか」と相手を惑わせる可能性が出てきた。触れてもいいのかと思われている・思われていない、どちらに転んでも問題がないような表情作りの練習を始める。

 

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都々逸を聴く間やらも

賽の目は動いている

 

鬼のいない間

晴天に照らされる中ほどの山

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ちなみに、意識したことを無意識にできなければ習得にはならないと考えているが、まずは意識から始まる。コンプレックスとして意識した時点で、捉われて他に転換するストレス解消法に走るか(これは根本的な解決にはならないのでお勧めできない)、もう一方は習得するか。

 

そして、聴かれてもいないのに「お勧めできない」と発言する。これは既成事実の作り方である。物事を進めるためのひとつの方法だが、鋭い人には「いやいや、そもそも聞いてないねんけど」と思われる可能性がある。ただ、本人の意図しないところで発生するユーモアには拍手を送りたい。人間味。

 

何を言いたいのかわからなくなってきているが、宝石はどこに眠っているのか、だれにもわからない。

 

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・(写真) 昨日、千駄ヶ谷でみた ESSUさんの作品

すごく惹かれた このキャラクターのアラビア語のような眉毛に魅力を

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「回廊日記」 2021.03.08

【回廊日記】

 

"死への距離"、それは作品を観る上でのひとつの指標になり得る。距離という言葉を使ったが、内包されている、割合を観るという言い方が近しいのかもしれない。
死の割合と言ってしまうと、割合という言葉が持つイメージのせいなのか、抒情的な感じがひとつもしない。つまり、文章を書く上において、この言葉はどれくらい抒情的であるか、ということを意識しているのである。

31歳、日本国に住んでいる男性の意見。
生業としてやっているわけでもないが、荒く言えば、創るとは改めて分類すること。

分類の例を挙げると、魚を釣ることが趣味の人の「川で鮭をとった」と文を書く人の「川で鮭をとった」は全く違うと言える。
つまり、釣りの名人が自分に合った釣竿を選定するようなもので、文筆家は自分の中のイメージで言葉を再定義する。この再定義が先ほどの分類に該当する。
(再定義と分類という言葉だけを抽出すれば、全然違ってくる、分類のひとつのあり方として再定義がある、と定義している)

再定義は地となり肉となり、簡潔に言うと、文体になると思う。音楽や文章や絵画、性質は違えど、個の違いを楽しむもの全般に言える、代わりのない線(文体)を持つこと。
ここまで記した、文脈上は同じ意味として扱っておきながら、言葉が持つイメージの差を活かして、数珠つなぎ的に文章を構築している。自らで作った段階をどれだけ説明的にするか、説明すればするほど想像の余地を奪うので詩的さがなくなる。
芸術家とは他者の想像力を喚起させる人。

 

と、ここまで、断定的に言葉にし自らが再定義を行った。
念のために記しておくが、"代わりのない線を持つことが創作において正しい"と言っているわけではない。こんなものはどこまでいこうが、嗜好の話である。
それ以下でもそれ以上でもなく、ある意味ブレがない。t


直径3㎝の円形に対して代替できない3㎝の丸を納めにいっているようなもの。本日の締め、今日見た映画と呼んだ本を、備忘録として。


1.『マリリン・モンロー 瞳の中の秘密』
-作品+そこにある人間模様
 錆びることのない磁石のように 人は人を惹きつける
 
2.『幼年時代 あにいもうと
-抒情的
 文章だからこそ出現する つまり どうしようもない

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「回廊日記」 2021.03.07

「回廊日記」


思考の道筋などというそれらしく見える言葉を標榜し書いていくのか。
物事の最初の、取り組むときの興奮している状態、どこか名の知らぬ海岸沿いからみた水平線のように境目をみつけ、初期衝動と名付けられた有難い言葉にあやかるのか。一言を捕まえて螺旋(横だけみると何も変わっていない)の階段、上り下りをずっとしている、つまり、ひたすらに言い換えているだけで、現状維持、時間が経過することを鑑みると、もはや後退していると言っても過言ではない。

 

ストレスの発散を作品とするのは、お菓子売り場で子供がだだをこねているのとそう変わりない。そうわかりつつ童心を都合よくとらえ、それさえも人を惹きつけようとする卑しい本能的エンターテイメントとして、全くのごまかしの類と自負しているが、辞められない人間の性(人間という言葉を使い大きいイメージをつけようとする、注意深くみればそこら中に転がっている論法)を曲解させ、1000文字ほどの文章を書く。

 

心象記と名付け、ただ感覚の一部を切り取ったブログを書いていたが、根本的には今回もそう変わりない。ひとつの文の雰囲気としての書き方は覚えたとして。
ただ、歳をとって曖昧でもよいと思えたのである。青年の激情、まさに劇場から脱出し、大人の戯言、願わくば創作のある一部の接点になれば願ったりかなったり。書く行為をただ続けていたい、書いているときは頭がすっきりとする。それは言葉に落とさなければならないという前提があるからと思う、集約させるというか。人に見せる作品がストレートな浄化行為というのはシェフとしていかがなものか、という気持ちを持ちつつ、理由が死ぬほど個人的である。


一度、「心象記」の続きとして「智慧の記」と名付けてブログを書いてみたものの、似合わない服を着ているときの違和感、サングラスを張り切って掛けてみた中学3年生のような気持ちがぬぐえなかった。今回は「回廊日記」と名付けてみた。目的の部屋にたどり着く気もなく、どこか好きでウロウロしている。どこにも辿りつかず、ただ廊下をうろうろしている、怪しさの中にひっそりと光る勘違い。玉石混合、一旦、原石と設定したものをみようとする。好きな人の文体(思考)を模倣しようとするのではなく、本来の意味で落としこんだ言葉で書くようにする、そうしないと自分で設定した探し物がみつからない。

 

何ともあつかましいが、思考することが癖になっている人や創作に携わる人の頭の片隅に異物を残したい。また、そういう話が出来る人と繋がりたい。豊かに。

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