日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

身体で得たものを言語化する

2021/02/22

 

二元論的な前提を持つ時点で全く目標の座標に届いていないですが、身体→精神...言語、の順番ではないかと、思う次第です。人によるのか、音楽を続ければ、続けるほど身体が顔を覗かせる。dtmはより精神の要素が強いが、それは自分の中の判断で精神=思考。イコールではない、二アリイコール。きっちり、リズムの中に収まりきっている、いわゆる音楽の定義に則っているものへの尊敬・憧憬が、どうしても拭えない、緑として。

 

リズムの、音楽、ありえないズレは、人間の嫉妬心や執着の表れと。生き方はどうしようもなくリズムにでる、遊び心を忘れた、そこに打ち込むことしかできないような。それは長い/短い、交通量の少ない、交差点での出会いのようで。年齢をとると、自我の面倒臭さが先行し、期限の切れた消臭力、もしくはプロレスラーのしなびたチョップのように効果をなさないのか。

 

そこを美徳・悪徳どちらでも取れる。支配的にコントロールできないと音楽家として(恥の肥大化)、最低限、スタートラインにも立てていない。


敬愛を込めて。

3.影長く伸びる塔のような建物の裏で待っているよ、な気がしてならない

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東京のラッパーであり、Nitro Microphone Undergroundの一員、千葉県松戸市議会議員であるDELI氏提供の『チカチカ(マル秘)大作戦』を聴きながら。

2020/01/28

 

智慧の記」などとそれらしさのあるタイトルを平気でつけましたが、更新が滞っていました。智慧に向いていない、賽の目があらかじめ決まっているかのごとく、絶対的な存在に見向きもされていないのかもしれない。

 

まどろっこしく本題に入らないのは古来から伝わる常套手段であります。現代の肥溜め(?)ツールであるSNSでみかけた「例えが下手な人は頭が悪いか、性格が悪いか」という言葉が頭をよぎります。


頭も性格も(中途半端に)悪くはないので、本題。

マイルス・ディビスのライブ動画を見て、どうしようもなく喋りたくなった。ただそれだけです。

www.youtube.com


お互いがお互いを無視しているのに、異常なまでに空気の統一感があります。これを仮に"音楽的"と名付けます。最近、言語における表現活動、いわゆる詩の朗読、スポークン・ワードを鑑賞する機会が増えていますが、"音楽的"とは違うと感じてならないのです。多分、音と言葉が持つ性質の差を指摘しているだけです。詩を言語外の感覚を言語に落とし込むという、”それを使ってそれ以外をあらわすもの”と捉えているのですが、習慣的に意味を捉えてコミュニケーションをはかるためか、意味の外に出られない、言い換えると、詩には意味が常にまとわりついている気がしてならないのです。

 

音楽はその段階を無視して、便利な言葉として、より宇宙的です。
反復の中での遊び。その遊びは人生を抽出して比喩表現に落とし込んでいるような気がするのです。詩的、音楽的。言葉遊びの範疇を抜けることはありませんが、その差について誰かと話したい気分です。

 

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・東京のラッパーであり、Nitro Microphone Undergroundの一員、千葉県松戸市議会議員であるDELI氏提供の『チカチカ(マル秘)大作戦』を聴きながら。

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鍛冶屋が金属を鍛錬するように、論理学に頭突きをかまそう

論理学入門

 

学問、言葉で説明される。その意味をつかまなければならないという考えにより、論理学の門をたたく。(「学問の土台は哲学にある」とどこかの教授が言っていたが、哲学は前提を疑うため、永遠に続くからひとまず放置)学ぶための道具の準備に差し掛かる。

 

オルガノン。wikipediaによると(概念の整理整頓を通して)真理の探求を可能・容易にするための道具」としての「論理学」。

 

とにかく入門する。お世話になります、野矢さん。

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下記は自分なりに要約したもの。

ブログだがノートとなんら変わりない。

 

まずは目的・目標--
「論理学の目標は、演繹的推論を整理し、体系的に捉えてそれを理論化すること」
一気に読むと頭に入らないからまずは、「否定」について。


・否定について

定義:「ある状況でAではないと正しく主張できるのは、その状況でAと主張すると間違いになるとき」

 

排中律
すべてを「AまたはnotA」のどちらかとする。

例:勇気が一度も試されないまま死んだ人は、勇気があるのか勇気がないのか、そのどちらかわからない。真相は闇の中、この場合「AまたはnotA」のどちらかにできない。二元論を認めないと話が進まない。よし、俳中律を認めよう的なノリか。

 

俳中律を認めるか認めないかで論理体系が変わってくるらしい。

 

--認める(標準的な体系)、あるものとする、実在論的立場、神の視点。
--認めない(非標準的な体系)、わからない、非実在論的立場、人の視点。

 

②二重否定則

(Aではない)ではない

つまり、A

酔っていない、ではない→酔っている

なんとなくわかるけど、なんだかイメージしにくい。いやな感じ。

 

矛盾律
「AかつAではない」ということはない 

矛盾律ではなく矛盾について、上記の「AかつAではない」が矛盾の範囲。
「あいつは勉強していないのに、東大に通った」は別に矛盾していない。
なぜなら、「あいつは勉強している かつ あいつは勉強していない(AかつAではない)」とはならない。あいつは勉強はしていないのだ。東大に通ることと、勉強をしているかしていないかは関係がない。

 

例:彼は12時にニューヨークにいた。
その10分後の12時10分、ロンドンにいた。

 

これは矛盾。なぜ、矛盾かというと10分でロンドンに到着できないから。
"その10分後の12時10分、ロンドンにいた"を認めるということは、10分でニューヨークからロンドンに移動できることを認めること。しかし、それは不可能。

「AかつAではない」にあてはめると"10分でニューヨークからロンドンに移動できる" かつ "10分でニューヨークからロンドンに移動できない"

両立しない、破綻。矛盾だ。


背理法

否定したい主張を仮定する。

その仮定から矛盾を導いていく。

すなわち、ある主張Aを否定していいのはどういうときかを規定したもの。「Aではない」と言えるのはAと主張すると間違いになるとき、これは否定の意味そのものだそう。ここで最初に書いた否定の定義を引っ張ってきます。

定義:「ある状況でAではないと正しく主張できるのは、その状況でAと主張すると間違いになるとき」

 

自明だけど前提がある。「ある主張Aを否定していいのはどういうときかを規定したもの」のどういうときかというのは前提の上に成り立っている。

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例:私は犬だ。
私は犬ではない

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前提の上に成り立つとは、この"私は犬ではない"ということが確実に担保されていることを指す。犬はみればおおよそ犬とわかるが、何をもって犬といえるのか。形?染色体の割合い?

 

 ここを掘り出すと前に進まないので、「犬は犬」「犬ではないものは犬ではない」とする。この当たり前のことをあえて言う手法(ボケ)は高田純次に多く見られる気がする。たまに自分も使う。

誰もが自明と思っている前提を口に出すと、すっとぼけた印象を与える、ひいては普通にアホと思われる。やはり Time、Place、Occation が大切。

 

雑まとめ


・前提の定義がないと学問は成り立たない

・その前提を疑うのが哲学 

・TPOはとても大切

 

鍛冶屋が金属を鍛錬するように、論理学に頭突きをかまそう。

 

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・総合芸術家集団 auly mosquito

https://auly-mosquito.com/

・笹谷創 ホームページ

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