独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

個性を普遍性へと持っていくためにも、「型」にハマってみよう。

現状とは逆に身を置く

 

なんとなくこなせることと、反対の場所に自らを置く。

それが「勉強」であるとある哲学者が言っていた、と友達が言っていた。

  

これを自分に当てはめてみると、文章の書き方ひとつとっても感じることがある。ザザ〜と文章を綴ると、勝手に自分らしさが出てくる。これは、曖昧になんとなくできることである。(なんとなくできるという表現はなんか違うけど・・)

 

その逆、つまり、それだけで確立されたような不動の文章を書くようにしなければならない。まずは、型にはめる。いつも「型」を感覚任せに折り曲げてしまう。ここまできっちりと「型」にはめられるのか!という方にたまに出会う。

 

確かに自分では絶対できない発想や行動がみて取れる。

そもそも、客観的な話をするときですら、鬼ように主観的になってしまう。その選択が大幅にずれているとは思っていないけど、冒頭に言った意味では勉強していない。

 

基本、私はミクロ、超ミクロなわけです。

ミクロな言動や行動の視野にとらわれてきたからこそ、打ち立てられる創作もあると自負しておりますが。それでは、自分の土俵で高笑いしている蛙です。

 

最近は本当に「型」、つまり、具体的なことを学び土台を作る必然性に絡まれています。そこに、次のステップがあろうことかと思います。

 

その辺りを乗り越えないと、視野が広がらなく価値観を一蹴できない。自分の個性を活かせない土俵にあえていく。そのためにも型を知る。

 

基本的に心の鬱積を掃除しているかの如く、文章を綴っている。

「昔の人の言葉を引用したりしないと、広がりがないよ。今のままでは創くんのことを知っている人しか読まないよ」

自分で気づいているけど、改めてそう言われると納得です。もちろんこれは、目的をどこに持っていくかによりますが。

第一段階の「自分が思ったこと」をつらつらと書いているけど、その「自分が思ったこと」を(いい意味で)型にはめて書くべきなのかなと。

そうしないと、情報としての価値が生まれてこない。同じことを言っても見せ方で変わりまくりです。説得力を持たせるための方法論として、引用や言い切り、感覚の言葉の選択ではなく、いわゆる正しいと思われやすい言葉遣い等、論文っぽく書く感じなのかな。

 

その道のりこそ、個性を普遍性に持っていくやり方なのではないでしょうか。

型にはめようと肩の力が入った文章・・(←頭韻のイメージ)

 

まあ、、気楽にいこう(´Д` )!笑

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