日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

陽が沈めばやがて思考は変化する

2020/07/01

 

おいそれと日々を綴ろうと思いながら、月が変わった。「月が変わって7月よ」というセーラームーンの決めゼリフ"月に変わってお仕置きよ"をサンプリングしたツイートを目にした。月が変わるたびにそのつぶやきを思い出すのだろうか。

 
久しぶりに出社すると、電車内にはたくさんの人がいる。皆、マスクをつけている。テレビで取り上げる熱量が減ると、まるでコロナが消えたような空気感になってあたる。改めて、メディアというのは良くも悪くも世間を作っていると感じた。分母をみない絶対的な意味での数字。検査しない限りそこに感染者はいない。ある特定の集団の検査を積極的に行い、それを発表するなど。

 

事実ではなくムードで心配し始める。"多くの人が話を聞くときに内容ではなく態度を聞いている"というのと似ている。一人ひとりに聞くとそうでもないのかもしれないが、人間が集まると波が立たないように、無意識的におさめようとするからだろうか。おさめようとすることは、物事を円滑に進める側面もあり、悪いとは一概に言えない。


"テレビで取り上げる熱量が減ると、まるでコロナが消えたような空気感になる"と言ったが、果たしてそうだろうか。完全に自分個人の判断である。人間は否応なしに前提に自らの考えを置いている、自分もしかり。疑う塩梅も案外難しいもの。


そういえば昨日は寺山修司の映画を見た。やたら白塗りの狂気じみた人がでてくる。いやはや、見世物小屋というのは、どうして人を惹きつけるのか。見てはいけないものを見ている感覚、背徳感は人を否応なしに惹きつける。

 

しかし、夜というのは妙な考えをこしらえるものだと。陽が沈めばやがて思考は変化すると肝に銘じて床に就く。

 

写真は朝の散歩中にみた「野菜畑」。

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