日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

「自分の感覚を当てにすることは辞めにしていきたい」今日1日をなぞった

6/15

 

週も明けて月曜日、自宅勤務である。曜日や時間をなるべく意識しないような生活!と胸を高鳴らせても、定時にパソコンを開く。気がつけばマイナーペンタトニックのギターの指板におけるルートを確認し、ガス燈という映画を見ていた。


誤った情報を相手に刷り込ませて精神的に追い詰めていくことを「ガスライティング」というそうだが、ガス燈という映画が語源になっているらしい。証拠が何もなければ主張は認められなくなったとたんに力を失う、狂った人扱いされる。まさに。

  

そして、夕方ハンナ・アレントの本を開いては閉じてを繰り返していた。悪は凡庸だというのが、ハンナ・アレントの有名な主張で、確かに無思考だと善悪に関わらず、エネルギー量の強いものにただ人は吸い寄せられていく。


とかなんとか考えて過ごしていたら、夜になった。日高屋の野菜炒めを食らっては横に寝そべる。相席食堂で千鳥の大悟は野性爆弾のロッシーさんの天然ぶりを「焼酎を一本空けた状態」と形容していた、秀逸なメタファー。
ロケが始まるやいなや「空、海、地面、木」と目にうつった、壮大な自然に関する単語を口に出していた。そう言われても特に仕方のない空気感は確実に出ていた。何となくそうだと思っていたら、やはり左利きだった。


レコードを整理しなければ。なかなかに腰が重いので、この日記を書いている。何もない日と思っていても、なぞるだけで意外にすらすらと出てきたりして、自分の感覚を当てにすることは辞めにしていきたい。なかなかに信用ならないもの。

 

写真はまだ名前も知らない、付き合いの浅い近所の公園。

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