日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

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2020/05/17

 

事象には作り出された概念と肉体を伴う実践としての、ただそのものがある。入浴している最中に「入浴している」とあえて認識することと、入浴していない時に、入浴をイメージすることは違う。そのイメージには色がついている、各々がつけた色である。行為ではなくて、イメージへの色の付け方が個性をはらんでいる。形式は同一であったとしても、諸々の感覚は違ってくる、多分。


表現はその差異を明らかにし、また新しいイメージを想起させていく、無限の連鎖のようなものだろうか。無意識を泳ぐ。無意識は海のような広がりがあるとイメージする。「泳ぐ」という言葉が選択されても違和感がない。その言葉に内包される、共通認識とされるイメージを想起させていく。会話中の「なんとなく言いたいことはわかる」というのも、無意識下(?)では、直観できているのではないだろうか。芸術作品はそういった部分を刺激していくものなのだろうか。的確に捉えてはいなくても、諸々が含まれていたりする?

 

言葉、細部をみれば微妙に違う赤色だが、それは赤色であり共通的に赤色を想起させる。作者と受け手の認識。

 

それを行うための方法として、対象への自己投影か。創造の連鎖はどこへ運んでいってくれるのか、行く先知らず、創り続けて、そこには何が住み着いているのか。歩いたり、歩くのをやめたりして。

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