日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

ようこそ、律巴さん。

2020/03/15

 

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3月10日 深夜

1:25 陣痛が10分間隔になる

2:30 病院に向かう

3:00 妻の検査を待ち病院に座る

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この文章を書いた24時間後には、子どもと対面しているのだろうか。深夜の病院、エレベーターで2階に行き、椅子に腰掛ける。助産師の方と思われる人物、スタイルの良い黒ぶちの眼鏡をかけた女性が颯爽と廊下を歩く。


分娩室からなのか、どこかの部屋から赤ちゃんの泣き声が聞こえる。"シュー"という謎の機械の音も聞こえてくる。遠くからのその音は心地よく、また、深夜に病院に行く体験がないためか、妙な緊張と好奇心がある。


新たな命が生まれていく現場。そこで働いている人々にとっては、いつも通っている職場である。なぜ命に関わる仕事に就こうと思ったのか気になる。立ち会える瞬間、その喜びがとても強いのだろうか。


と、文章を書いてから気がつけば6日が経過していた。

やっと落ち着いて、娘と対面。とても小さい。誰も何も教えてないのに泣くこと、つまり、伝えようとする。そう考えれば、泣くことは本能的であるのか。教わらずとも備わっていること(?)


自身の心情はどう変わっていくのだろうか。今週はとても濃くて疲れた。そして、好きな人が増えた。シンプルにこれからが楽しみになった。ようこそ、律巴さん。

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