日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

カブトムシが疑問にまみれた。

2020/02/27

 

aikoさんのカブトムシを聞いた。

有名な曲で疑問を挟む余地なしと思っていたが、この曲でタイトルを"カブトムシ"にするのかと多少の困惑。wikipediaによると、「カブトムシは、昆虫では1番強いとされる存在だが、甲羅1枚剥がすだけで柔らかくなって脆くなり、実は寂しい昆虫ではないか」とaikoさんが言っていたそう、着眼点とその知識。


「甲羅を剥がすとカブトムシは柔らかいのか!」と感嘆する前に、カブトムシの甲羅を剥がすなど考えにも及ばず。甲羅があってのものという認識であった。そうか、あれは甲羅なのか。


カブトムシは甲羅がないと気質も変化するのだろうか、彼らなりの仮面の告白を始めるのか、いつもと違う、それでもただ同じように行動しようとするのか。習性と新規の体験が混ざっていく、音が流れれば踊る、という妄想。


気質を気質たらしめているのは甲羅がある状態、そのものにとって過不足ないからその気質であるのか。これはただ「何かに依存しないと生きていけない」の言い換え(客体としてみてるか、主体としてみてるかの違い)のようにも思える。


様々なものに状態があるが、現在地点で過不足のない状態と言えるのだろうか。そのものにとっての都合以外に適正な値はあるのか。カブトムシが疑問にまみれた。

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