心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

思い込むことにより、悩みから抜けようとする人の性

2020/02/18

 

日曜日はとてもすぐれなかった。

全く何も起こっていないのに、気がつけば普通に大の大人が泣いていた。20歳頃が精神状態が一番酷かったと記憶しているが、それは初めての体験だったから、辛かったのかもしれない。近年は、その状態に抵抗させる、抗体みたいなものが出来上がっていたのに。少しショートしたように思うその現象は日曜日だけで、次の日にはすんなりと戻った。戻ったけど、同じではなかった。少し形が変わり戻っている。なかなかそういった変形に出会うことがなくなったので、驚いている。


個人の超越による普遍性の獲得、独自性と普遍性は切り離せない、とかなんとか、本で読んだためか、それを意識し個人であることに振り切っていたら、ただただ負担がすごい。読む本を少し変えて「日本の原像」という本にした。タイトルに反して、本の内容はリラックスした対話形式であるためか、気が休まる。


精神が読んでいる本に明らかに感化されている。以前より本読みから受ける影響が大きくなっている気がする。逆か、そういう精神状態だから、そういう本を選んでいるのか。

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傘をよく忘れる人が傘を取りにいき、「これで家族の人に怒られない」と笑顔で言っていた一言に対して、なぜか"この人こそが個人を超越した存在だ"と思い込んだ。

 

記憶で書いているので、正確ではないかもしれないが、全ては世界からのメッセージであると思い込む主人公の映画がある(司会者の人が首を横に振る回数にも意味があると思い込む)と少し前に友達に聞いた。

その主人公に自分がそう遠く無い気がしてきた。


毅然とした態度で内省的に悩む。態度と悩みを分離させればいいのか。堂々と立ちながら、みぞおちあたりに緊張感を走らせる(?)

しみじみよりは、あっけらかんとしていたいので、あっけらかんと悩む。母親がこどもを生む準備をすすめているように、これは準備なのだ。父という役割上、極度の状態以外では精神と態度が分離できるようにしておく、その準備だ!と断定していささか高揚する。不安定時はやたらと断定が増える。

 

思い込むことにより、悩みから抜けようとする人の性だろうか。と、冷静にその断定を見ている感覚も残っている。こういったときの断定の続かなさはよく知っているが、またひとつ、表現につながればいいなと淡い期待もある。

 

無限ループの状態であり、現実感が喪失してくるが、心象を綴るのであり心傷をひけらかすのではない。

 

青年期のあの、目の前から色が消えることはもうなくなったみたい。

よかった、よかった。