心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

アンバランスなバランス

2020/02/16

 

その昔、10年前ぐらいに「アンバランスなバランス」というタイトルの曲を書いたことがある。アンバランスである、均衡のとれていない状態が永続的に持続するという前提において、アンバランスな状態が維持され、側からみると"バランスが取れている状態"が続いている。


この現象はよくある。当人が悩んでいても、周囲が最終的には大丈夫になっていくだろうと判断を下す。

 

判断を下したはずの周囲が当人の場合、悩むこともある。その相互関係を知ることにより、接し方を覚えることもある、自己の体験に基づく想像力。コミュニケーションは体験と想像力によるものが大きいのか。悲痛な体験をすると、想像力がそこに引っ張られていくのか。


その人の線ともなり得る、一般的には短所とされる、そのクセを矯正するのは制限を掛けることになり、それは間違いとの認識が生まれて、人としての許容範囲が狭まっていくように思う。すべて曖昧であることによりバランスは保たれているのか。分母が大きく意見がまばらになり、曖昧に収斂されていくのか。曖昧に収斂というのも、変な感じがする。

 

話は飛ぶが、最近読んだ南直哉さんの本の"ある部分"が印象に残っている。

「◯◯のためにしたい」に対して、「それは何のためだ」と問いまくると、つまる。「◯◯のために」の理屈を追い込んでいった結果、「何」でどんつまりになるという。そこから先にいかない。ということは、私たちの生の極には、あらかじめ決まった目的も価値も意味もない。あるのは、ひとつの「問い」と結論づける。

 

なるほどと思うと同時に、「生の極」という相当の思考量をもってしないと、パッと出てこないであろう言葉に関心が寄せられる。

 

とても幸せの反面、反面かはわからないが孤独だ。やっぱり、つきまとってくる。あるひとつの点から同心円状に広がる。ああ、次の波がくる、繰り返しは終わらない。

こんにちは、結合と分離。

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