日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

作者と鑑賞者、想像力の委ねあい。

2019/01/04

 

2020年、東京。

上限のない時間が流れている。想像として存在する都会と、人混みにまぎれて同じ帰り道をいつも歩く。これといった核はひとつとして創造されず。そもそも核なるものが存在するのだろうか。言語であらわせない感覚を表現しようと筆をすすめる。それは言葉を媒介した表現であること、矛盾、百も承知である。


その矛盾を乗り越えた、それのみによって成り立つ、捨象化した美しい文章もあり得るのではないだろうか。肉迫した、生の人間を感じられる。そういった前提の元で。創作は音や言葉や絵など、記録として残る、何かしらの対象物が必要である。そして、残るものである以上、技法が存在する。

 

作品のみを鑑賞者が享受する場合、"残ったもの"以上のものを残せない。そこに"残ったもの"で鑑賞者は評価をする。鑑賞者側からみると、その入り口、インターフェイスからしか、高いコンピューティング能力を有していても、作者の内にはアクセスできないのである。アクセスする方法としては、想像や感覚といった概念的なものになる。

 

つまり、作品は感覚や心を通じあわせた曖昧なものである。作者と鑑賞者がいる以上、大掴みに言えば合作である。

 

作者と鑑賞者、想像力の委ねあい。

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