日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

客観、万物に対する「良い」とは何かを考えること

 型

 

フリースタイルでラップする姿を目の当たりして。「フリー」訳したら自由、即興。と言われると、「何をしようが自由です」といった感じがするけど、明らかにその人のスタイル、「型」がある。即興の演奏も同じで、広義に捉えれば、料理もスポーツも話し方もその人の「型」がある。

 

意識的に出来たのかどうかは本人次第だが、自分の「型」を見つけてしまったらどうするのか。その型の延長戦上を邁進する「改良」、もしくは足りない部分を埋める「補足」。基本は精神的にも客観的にもハマるものを選べばいいと考えられるけど、自分の型に万人が「良き」とするものは含まれているのかと自問。

  

万人の「良き」、人間の心をほぼほぼ打つもの。ピアノの音とか、壮大な自然とか、心を打つ普遍的なもの。それを自らの「型」に落とし込めるかどうかはわからないが、万物に対する「良い」とは何かを考えることも大切かと。

 

突飛ですが、やはり、詩は美しい。その言葉に至るまでの過程を想像し、行間に滲み出る感性を愛でる。 今まで意識したフロウを活かしつつも、わざとらしさのない、上記のようなフリースタイルを実施していきたい。解釈の自由に甘えず、言葉を駆使すること。あまり定義をおざなりにせず。

 

ひとつに全てを費やし求道すること。その「型」のためにもっと、飽きるほど周囲を見る。それゆえに批判をしそうになるけど、そこを巻き込めるほどの人間力を。そうして、はじめて求道したことに深みが出る。何万回も繰り替えしになるが、程度の差はあれ、感覚を備えた人間がやるということ、言ってしまえばそれに尽きる。

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