藁火サイファーへ
2019/09/26
埼玉に身を潜めて数年が経つ。大宮、川口、その辺りは街が栄えている。川口の規模感は大阪で例えると天王寺である。都内で用事を済ませることも多く、なかなか、埼玉の各駅を降りることがない。昨日、初めて蕨に降りた。名前の由来にはいくつかの説があり、「藁火」が変化して蕨になったという説もあるそう。
藁に火。なんと品のある字面。火が持つ神秘性にそう思わされているのか。ああ、使役。そんな蕨駅でサイファーが行われているとの情報を得た。単身、乗り込む。だだ広いクラブの個室でそれは行われていた。懸命に言葉を紡ぐその姿に献身的な対応、とても有難かった。
私もその円の一部となり、対話の質を変えてしまう素っ頓狂な言葉を羅列する。それは私の自然な在り方である。不自然に調子を合わせても、篝火が消えるように、精神の拠り所を失うだけである。違いがあることを前提としている相手に対して、失礼でもある。そのままに自然を保つ。その自然をより相手に伝えられるようにする、そのためのキャラクターを考える。
味を変えるのではなく、包装の仕方を。味を変えてしまっては表現する人として元も子もない。自身との対話を重ねている人のラップはとかく味わい深い、技術ではない部分。
キャラクタ性について、よく考える機会になった。自分の躍動を見つめる。