心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

その詩に対して、自分が確信を持てるかというやはり一点。

2019年7月3日

 

言葉に興味があるのも、思考をしてしまう癖を患っているからであり、過去に小説を読んだのも、そういう種の癖を持ってそうな小説家たちの思考を知り、感性を近くにみたかったから。リリックを書くと自然とその思想があらわれている気はするが、詩に関しては門外漢。

 

詩のつもりで書いたことはない。最近、詩人の方と知り合ったり、自分も少し詩を書いてみた。そこに並べられた文字列はおそらく、過去にこの心象記に綴っていたものと遜色ない。表面的に。だから、別にそれでいいという解釈もある。

 

それは違う気もする。品行方正な人間ではないが、その書き方は詩に対して失礼な気もする。これは逆から見れば、自分がイメージした「詩」を人に割り当てている行為で保守的とも言える。

 

その詩に対して、自分が確信を持てるかというやはり一点。

 

詩は評価と対極の性質を帯びている故か。書くというより書いたものを見つめ直し愛でて、育てていくという表現の方が適切な気もする。少し書いただけで、すでにへらず口。まるで詭弁家。初めてやることは不安というなんとも平凡なことを、婉曲も婉曲で、記しただけ。と、途中で気がついたので筆を置く。

f:id:sasaworks1990:20190703233907j:plain