日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

創造とは編集である。

週末は南米の演奏を聴きにいった。とても陽気で活力的だ。平穏でいい時間が流れていて、狂気的な感覚や鋭さなど不要に思える。


体験は活字になり、音になり、共有されていく。ブラジルに行ったこともないし、ブラジルの友達も特にいない。それでも音は道を拓いてくれる。

 

歴史の通過点という感覚からみれば、存在を残して終わるのではなく、経験や体験を残して終わる方が人間の生き方に沿っている。数日後、そのような仮説を考えた。ただ、存在を残さないと、経験や体験は目に触れないままになる可能性があるけども。自らの感覚で作っているような気がしても、他の体験を集約させたものだったり。組み合わせを選べるという点においては主体性があるけど、素材は借りてきたもので、それをいかにインプットしたか。改めて。


その点を抽出して考察すると、創造とは編集である。素材を共有していく辺りがとても人間の営みらしい。自分自身が絶対的な人、相対的な人、それは創造する編集者としてのタイプでそこに優劣はない。

 

共有している、シンプルにそういう感覚の方が好きだ。

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