日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

行動と感情をわけていく。そんな日々を暮らす。

2019年6月13日

 

昨日は、兄貴的な人と飲みにいった。

同じ言葉をかけられてもすごく腑に落ちる時と、そうでない時がある。その人の無意識の階層までに落とし込めているかで、その言葉の重さは変わる。

 
一般的にナイーブな人、他者の言動が心に残ってしまう人は、感度は高いが心に残るため固執的になり、考えが一辺倒になりやすい。信じることにより自分を安心させる逃避行為に近いのかと。繊細な人の捉え方は的を得ているが、それだけではないと。書いてみたものの、頭では理解しても心は、そうは簡単に問屋が卸しません。忙しい。


「コミュニケーションはお互いが納得すれば成り立つ」、言い換えれば、コミュニケーションとは勘違いの連続。相槌は「了解」を示し次の展開へと進める。所作、表情、言葉、それらを使用して。真実かどうかではなくて、認識だけ、仮想。それはまるで、プロトコルのようだと。


知らないふりしたり、知っているふりしたり。そう考えると、コミニュケーションは無機質な行為であり、一種のゲームのような。特に利害関係での繋がりの場では、そういうゲームがあちこちで行われている、とだけ考えるのも斜に構えているみたく。


客観視するとは、世界に血を通わせない鍛錬なのか。もうしばらく、探ってみる。行動と感情をわけていく。そんな日々を暮らす。

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