心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

カウンターであるということ。

薄々気が付いていたけど、自分が信じたものにしか加担できない人種。感情面ではなく、事実として。悲しみも喜びもない。ただただ。

人間も地球の一部として、考えるとどうしても共生のバランスが変に感じてしまう。自然に還りたくなる気持ちが実感として。

 

とか、思っているのも、がっつり、まさにというか、ステレオタイプに思えてしまう。それでも、信じたものしか信じられない。繊細やけど傲慢みたいな現象に人格が陥りがちだ。こういう檄的な感情は破滅に近づくと、知っているのに。

 

感情と行動を分離させないと。身体がもたない。

でも、そこに表現が隠れているのではないかと、淡い期待もある。何かを得るとは、何かを捨てる。言葉尻ではなく、だんだんと身を以て迫ってきている。

 

最近思う。親との関係がやはり大方その人を形成しているのかなと。変な話、至って円満な家庭。なのに、何故、信じたものしか信じられないのか。幻想という理想に苛まれている。せめて社会との接点として、身を滅ぼさない方法として、最低限、行動と感情を分け隔てよう。最近、精神的な調子が悪いのは確か。

 

今日、赤羽で食べた担々麺おいしかった。

f:id:sasaworks1990:20190503235659j:plain