自然と辞書に目が向くのです。
言葉には様々な解釈があるものだと考えていると、月並みに辞書のことが気になった。
どのように作られているのか、知る由もないと言い切るのはまだ早い。元号も移り変わり世は令和へと進んでいる、2000も飛んで20年である。httpというプロトコルを使用し、その日限りの知識を得るのだ。
google様の御目にかかったのか、検索のアルゴリズムに見事にハマったのか。辞書について、とても面白い文章を発見した。辞書に対する愛が行間からひしひしと感じられる。
http://human.kanagawa-u.ac.jp/gakkai/student/pdf/i06/P017-022.pdf
ふむ、辞書の始まりは 大槻文彦さんが編んだ「言海」というものだそう。言海、幾人もの天才が溺れては還ってこない言葉の海というやつか。始めはそういった個人的なものも、編集委員会なるものができて標準化されていく。「標準的なものは個人を常に内包しているのか」と別の疑問が浮かぶが、それはまたいつぞや。
非常に私事ですが感性の限界を迎えつつある昨今、言葉の定義、音色をはいだ音の骨組みなど、標準化なるものを身体に染み込ませ、再構築しなければとひしひしと思っております。感覚の補助輪的な存在としての、知性と言いましょうか。
そういう考えに至ると自然と辞書に目が向くのです。取り敢えずは、新明解国語辞典の第七版のアプリケーションをインストール。やっ、wi-fiがないと、ダウンロードが始まらず待機中に。「ご対面はしばし待たれよ」と定義づけられたのか。
以下、辞書情報。
(i phoneにあった写真)