心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

創作にとって情報を得るとは新たな素材を貯蓄すること

とにかく感情から逃れるため、言葉を浴びていた。それは同時に感性を高める行為に成っていたように思う。最近は全くそうじゃない。純粋なる知的好奇心。そこにあまり自我が入り込んでいない。これは年齢の賜物か、感覚の頭打ちか。

 

甚だ不鮮明ではあるけど、情報が感情をあまり伴わずに入ってくること。驚愕。結びつける発想力の前の、結びつける素材を知ること。情報を得るとは創作にとっては、新たな素材を貯蓄することでもある。あまり目的めいたものにすると、純度が下がるけども。骨組みとしての抽象的な概念まで落とし込まなくても、具体的な情報をそのまま丸呑みにする感じでいければと。

 

それは、執着をシンプルな力に変換する作業でもある。執着はとてつもないエネルギーを持っているけど、雁字搦めになり独断的になりやすい。

 

動的平衡という言葉がある。
以下は生き方を動的平衡になぞらえた生物学者福岡伸一さんの言葉。

”川はいつもそこにあるように見えるが、流れている水は二度と再び同じ水ではないとしている。そういうものとして生命があるのが動的平衡で...”

 

わたしとあなた、影響し合う関係性は同じなれど、時間が経てば全く違う人同士である。執着はそう言った自然な関係性を止めてしまう可能性が高い。変換するならばあくまでもいい方向に。

心象記 1

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