心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

誰がために伝うかは、未だに雲の中。

 

手の甲に浮かぶ血管を眺めていた。ぽこりと紫色した太い線が日毎に変わることもなく、いつもそこにある。私の感情や分析などとは、全く断絶された世界。この目で見ているはずが、常に別次元に存在している。最近は、「乖離」と「同化」にやたらと思考が進む。

  

ゆえにその筋を奇異に感じ忘れ難き興奮となる。一端のある大人は、マニアックな嗜好性の強い店に通うようになる。それは何も不気味なことでもなく、必然的ですらある。数年前には、あれだけ不可能と認知していた感覚も当たり前のように含んで考えている。乗り越えてきた数か質か、またはそのどちらか、両方か。

 

知覚は分裂と統合を幾度となく繰り返し、「若い頃と変わってしまった」やら、勢いがなくなったなど、瞬時の諸刃の剣ではない。世間と馴染めぬと理解し研ぎ澄ましてきた。その個が作品となり誰かの手助けとなれば。誰かへの憧憬は背中を押しても、決して届かない。諦めが肝心、齢を重ねて思うこと、正しくは諦めも肝心と強く思う。

ライブとは何かを伝うこと、その機会、耳の痛いお節介も、ライブという名を借りれば。
誰がために伝うかは、未だに雲の中。されど、届けにいく。

最近、暖かい。春が来たのだ。

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