心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

「なにかあるのか、なにもないのか」

なにか

 

そこには何もない。穴もなければ、出っ張りもない。欠如もない。憂いもない。喜びもない。決意もない。色もない。娯楽もない。発想もない。悪人もない。犯罪もない。気遣いもない。

  

「ない」を並べた。
存在しないというのと、ないというのは違うのか。ある人にとって存在していれば、それはあるに分類されるのか。この場合、ある人にとって存在しているということを知っていなければならないけど。

 

伝聞としてある。知識としてある。情報としてある。目に見えないもののあるの分類の仕方は、言葉で表すから曖昧。それはあるという状態なのか。ないからあるのか、あるからないのか。

 

あるでもないでも、そんなに遜色ないもの。
「ある」から「ない」への状態変化。水は蒸発すればみえない。水が消えるのか、網膜の状態(脳?)のせいでみえないのか。それらの関連する何かなのか。あるのかないのか、これまた、認識とは不思議なもので。だからどうとかこうとかもなく、それでも、あるのかないのか。

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