日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

表現法と自己の同化

表現法と自己の同化

 

山月記を読んでいて、歴史物のせいか、私のせいか、難解であると。ふと3,4年前の感覚を思い出した。背伸びをして難しい本を読む姿勢。その時まで本といえば、ドカベンカイジくらい、つまり漫画を読んでいたぐらい。後、友の家にあったひぐらしのなく頃は思い出深き。

   

そんな中、25歳、突如、将来のことを考え出し、1日1冊ぐらいは読もうと始めた読書。
とにかく、文字をシャワーの如く浴びた。正直、全然内容など頭に入っていない。しかし、感性的なものは入ったと思う。それは錯覚で今もその幻想の中かもしれないが。

 

最近、そんな夢幻を無邪気に追いかけていたように、つまり、昔みたいに本を読めなくなっていた。まさか、小慣れてしまったのか・・。マンネリズムの到来。と、考えていると山月記のパワー。

 

あっ、、楽しい。

私は内容を理解する、物語を追う、本の読み方ができない。

直観、文字の形かその現れるところか、それらと同化するしかない模様。

 

最近様々な人と出会う、素敵な方ばかり。仲良くなれたらいいなぁと思いつつ、何をどう話せばいいか全くわからない(切実) ただ、悲観しているわけではなく、そういうのを表現に落とし込むしか。表現方法との同化へとさらに前に進んでいきたい。

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