表現法と自己の同化
表現法と自己の同化
山月記を読んでいて、歴史物のせいか、私のせいか、難解であると。ふと3,4年前の感覚を思い出した。背伸びをして難しい本を読む姿勢。その時まで本といえば、ドカベンとカイジくらい、つまり漫画を読んでいたぐらい。後、友の家にあったひぐらしのなく頃は思い出深き。
そんな中、25歳、突如、将来のことを考え出し、1日1冊ぐらいは読もうと始めた読書。
とにかく、文字をシャワーの如く浴びた。正直、全然内容など頭に入っていない。しかし、感性的なものは入ったと思う。それは錯覚で今もその幻想の中かもしれないが。
最近、そんな夢幻を無邪気に追いかけていたように、つまり、昔みたいに本を読めなくなっていた。まさか、小慣れてしまったのか・・。マンネリズムの到来。と、考えていると山月記のパワー。
あっ、、楽しい。
私は内容を理解する、物語を追う、本の読み方ができない。
直観、文字の形かその現れるところか、それらと同化するしかない模様。
最近様々な人と出会う、素敵な方ばかり。仲良くなれたらいいなぁと思いつつ、何をどう話せばいいか全くわからない(切実) ただ、悲観しているわけではなく、そういうのを表現に落とし込むしか。表現方法との同化へとさらに前に進んでいきたい。