日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

取り繕っただけの言葉より音で揺れる瞬間にこそ真実はある

音楽を聴きに

 

久しぶりにふらっと音楽を聴きに行った。毎日、作ったりイヤホンで聞いていたりしますが、「音楽に身を委ねて体を揺らす」、他にはない高揚ぶり。あまりの生きている心地に全て投げ出しそうにもなったり。強制的に頭を使ってしまう自分にとって、頭を使わない時間は間違いなく至福の時。

  

理屈を抜きに音を感じられたのも、ダビンチさんの選曲ありきで。肩で息をするように音楽が芽吹いている。その瞬間に立ち会えたこと、感謝。外に出て音を耳にすると、家で創っていたことが報われるような、その偉大さに敬服するような。感情を動かされたことは確か。

 

取り繕っただけの言葉より音で揺れる瞬間にこそ真実はある。

 

正しき導きなど甚だ不明であるが、音楽とこれからもともに過ごすなら、そういう立場でありたい。・・その裏から似たような興奮と似たような日々が顔を覗かせる。家に帰れば嫁がいる。


投げ捨てていいのも事実なら、着実に道を切り開きたいのも事実、守りたいのも事実。

いくつもの概念的な事実に身動きが取れないのだろうか。いや、足も手も口も動く。すべて捨てられないなら、今は具体的に行動さ。ともに、人間、足るを知るのだ。

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