姑息なネズミは、暇を持て余したネコにやられるばかり。
相互
前についている目、ふたつ。
監視されている時も、悦楽に溺れている時もその目は感情と乖離している。
「映像はひたすら流れても、何も見えちゃいないね」買ったばかりのカップ麺の汁をすすりなが武史は言う。彼が心に持つプライドをぶった切ってしまおう。紛れもなく高尚ぶった俗物である。
「世にはフリをしているもので溢れているわ」きつい目をした京子は喉をゴクリと鳴らし、言葉をもらす。言葉とは裏腹に、真実ぶった言説をオモチャのように扱う武史が可愛くて仕方なかった。恋愛における極意は、ずれているという相互作用であり、それぞれがその事実を理解している憎らしい状況である。
言葉を駆使した駆け引き、安直なゲームが目の前で行なわれている。京子は目鼻立ちがくっきりとしている、明からさまな美人。武史はエラが少し張っているため、豪傑なイメージを持たれやすい。身体的な特徴さえも彼らに何かの「ふり」をさせるのだ。
「姑息なネズミは、暇を持て余したネコにやられるばかり。だけど、生の尊さは性質や特徴にはないのさ。つまり、ネズミは十分に生きたんだ」武史は早口で言う。
「何がつまりなの。武史の言葉は機械で無理に揃えたいびつな粒みたい。虫唾が走るわ」
「そんなに言わなくたって、姑息と告白した上に・・、泣きっ面に蜂だよ。僕は」
後筆
上記の支配には、優越感が含まれている。人は自分がコントロールできている状況に幸せを感じる生き物である。武史と京子、本当に支配されているのはどちらか、それは考えるだけ野暮である。コミュニケーションを客体化すれば、それはズレを生かした相互的作用を発生させることだと気がつく。