心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

おもってもいない愛想笑いは、表現を殺していくだけ

表現

 

小林秀雄さんの本を読んでいて、「誰が物を眺める時、観察と感動とを切り離さうといふ様な不自然な事を敢て行ふだらうか。僕等が世の固有名詞といふものにのっぴきならぬ愛著を覚えているといふのも、要するに僕等は多かれ少なかれ生まれながらの叙事詩人であるが為だ」という文に出会った。

 

しばらく前に、表現は「どれだけ素直に自己をだせるのか」というところにあるとテレサが言っていた。その言葉とクロスオーバーした。

 

少し飛躍だけど、より本能を出していくという意味では良い表現のためには動物に近くなっていくことなのかと。と、なるとやはり自然というものを放っておくわけにはいかない。自然信仰と芸術というのは、決して遠いところにいないと思うので。

 

ただ、同時に動物自身がアート的なのを生み出すものか、という疑問も湧く。考えを巡らせる人間が自然に傾倒していくからこそ、つまり、「動物に近づく」のではなく「資本主義と離れる」からこそ生命力のある作品は出来ていくのではなかろうか。

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ちょいと話を巻き戻し、目に見えるものと見えないものというのをどれだけの比重で生きているのか、というのが結局、自己を出すことにも繋がるように思う。

見えるものと見えないもの、物質と精神と言い換えられよう。日常を精神的な部分に支配させるのか、物質的な部分に比重を置き、リッチマンを目指すのか、と、そのバランス。

 

疑問は尽きぬが、ただはっきりとおもってもいない愛想笑いは、表現を殺していくだけ。あと、多分、自分の価値観が誤解を持って伝わり、苦心する。経験からそう感じる。一流の表現者になるには、なんとなくの着地点を見つけるという行為を減すべきである。ある種、犠牲が伴うけど、とりあえず、押し殺すのは罪と設定しておく。