独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

みんなと「肩を並べられる」安心感は麻薬的だ

ふと

 

経済は経済ってみんなが思うから成り立つ概念。この概念により、選択肢の幅を破壊されてはいないか。馴染めないという心が生んだ言い訳のように聞こえるかもしれないが、もう少し多様性があってもいいかと。

別の時間が流れている場所は探せば確実にあると思うけど、相当、目を凝らしていないと、そもそもその時間感覚に気づけない。優劣の話ではなく、平等に選択肢があってもいいのではないかと思う。

  

みんなと「肩を並べられる」安心感は麻薬的だ。だって、自分だけではないもの。個人個人の選択に横並びという概念が常に含まれているようにも感じる。

 

尖ることが表現のすべてではないけど、そういう言い表されない感覚を詰めこんで。パターンを押し並べても、そこに人の感覚があってこその、と思う。その反面、一人で考えたことや感じたことでも、関係性、つまり相対性の中にしか、物事は存在しないという。(主観の感覚を真実と仮定すれば、人の数だけ真実がある、となる。)

 

と、感じたままに綴った上記の文も、もはや幻想なのかもしれない。

時たま古本屋で見かける藁半紙。持ち主を転々と変えて、誰かの手に届くまではそこにずっと佇む。そんな感じで、流れるように。喜びも皮肉も、慈しみも、悲しみも、毎日、等身大を表現して。

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