独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

意識しない音や意識しない模様を浮かび上がらせ

花鳥風月、日本の小説には自然の描写が多い。自然を神聖なものとし、長い年月を過ごしてきたからかと。タイムマシンでその時代まで行ったわけではないけど。本当に宿っているかどうかは知り得るところではなくとも、自然の力というものを感じられる心でいたい。

 

目標に向かって行動、時間を区切りどんどんとタスクとやらをこなしていく。その生活は、自然に対峙する心を無くしていくように感じる。あまりにも生活が染みつきすぎると、愛でる心を忘れていることすら忘れそう。

 

日本の場合、美しいものと自然は切っても切り離せないのかと。そういう意識でいると、足るを知る精神が自然と注入されそう。

 

私はなんでもない近所の公園にいって葉を撮ってみたりするのですが、邪念なく撮影できます。スッとする感覚。

幾何学的でなく、雑然と生えていたりする草やその辺りに落ちている木、それらも何かしらのデザインを成しているように思える。

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「紙は木からできている」という当たり前のことさえも、驚き。木をみて、「これがどうして紙に!!?」と。あらゆる軋轢は損や得を考えてしまうがために生まれるのではないか。

 

自然がデザインしたものを、ありがたく受け取る。それは作品へとできる。センスや感覚、それは切り取る側に課せられているが、あるがままに。

 

写真だけではなく、音楽でもできる。自然の音を取ってきて、それでビートをつくってみようとふと考えたり。そうはいかずとも、意識しない音や意識しないデザインを浮かび上がらせてみよう。