独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

取捨選択して生きるということと同様に、誰かを切り捨てなければならないのか

選択

 

群衆、マクロ的視点でそれをひとつの塊として考えるとちがった見え方がする。

「個人個人はいい人なのに、群がったときに愚行を止められない」ということを聞いたことがある。要するに、赤信号みんなで渡れば怖くない理論かと。大多数にいると人間は安心する、判断も身を任せがち。智者はそこに警笛を鳴らす、という構図。

果たしてこの構図は正しいのだろうか。なぜ、警笛を鳴らすのか、心の中の衝動なのか。やはり心というのはわからない。

  

自分はビジネスはある程度の定石があるように感じるけど、政治というのは判断が困難であると思う。誰かの幸福を取れば誰かが泣く。時間が有限な限り、取捨選択して生きるということと同様に、誰かを切り捨てなければならないのか。そこを前提にすると、数で見るしかなくなる。つまり、より「多くの人の幸福」が判断を下す理由となる。そういう意味では、政治家は私利私欲ではつとまらないというのは頷ける。

 

うーむ。社会に対してメッセージを発信するのであれば、断片的な仮説をつなぎ合わせるのではなく、普遍的な情報を体に染み込ませることに目を向けて!と自戒です。

 

語ることにではなく、学ぶことに多くの時間を費やせば言葉数以上の伝わり方がする、、というのはなんと都合がよろしい考え。日々、社会に生きる者として考えることがたくさん。

そんなことを考えつつ、今日は嫁ちゃんと公園を歩いた。そして、元ちとせさんのライブを観た。ライブのMCは難しき。「あなたに言っているのですよ!」感、もしくは「この人、異常に楽しそう」と思われなければ世界観は伝わりにくいのかな。勉強になりました。

 

しかし、木の断片って素敵。なんか、心躍ります。

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