独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

まずは、生活のスタイルを知ることから

 生活を知る

 

もっと、奥にある人としての本質の表現手段であるはずが、気が付けば、音楽のための音楽になりそうになる。

それが悪いことでは決してないが、「客観性に収斂」という言葉を標榜している自らにとってはどこか違う。音楽を介してのコミュニケーション、つまり、パイプとしての役割を意識すべきなのかなと。詩などの作品に一貫して言えることだったり。

上記は抽象的な書き方だけど、具体的な一歩として最近思うのは、一番時間を裂く生活のことを知るべきかと。特に疑問に感じることなく、エネルギーを消費し、私たちは満足を得ている。私はそのエネルギーはどこからやってきて、どうお金が絡んで、どれくらい残ってて、どういう弊害があって、どういう利点があって、違った活用方法はないのか、など何も知らない。

 

今行っている生活とは本当のところを知った上での選択であり、最良なのか。

大量消費による生活、DIY精神満載の生活。様々ある。現在の生活が人間の「生活」として考えるのは、早計だと思う。生活の「根」の部分を見直してみよう。

 

人間である限り、承認欲求が存在する。

その承認欲求との付き合い方によって、行動や指向も変わってくると考える。満たすために他を陥れるのか、欲求を何か別のものに変換し(買い物とかのストレス解消など)、日々、消化させるのか。そこの向き合い方によって、現実で起こる出来事も変わりそう。すごく大雑把になってしまうが、争いなどの根幹にも承認欲求があるように感じる。

 

自分も含めてだが、人間の意識の領域は、無意識の領域に比べて狭いようにできているように思う。それはストレスを貯めないための防衛本能なのかもしれないけど。

その幅によっては、また、別視点の感覚を知れるのかと。

と、まあ、走りすぎず、勉強しつつ、世の中を知ろう。概念と戯れれば、芸術はできるように思うけど、どう考えても、人が生きている世界なのだから、人があっての自分なのだから、役に立ちたい。・・という承認欲求(あら、見事なカルマっ!!)

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