独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

「乖の離」

乖の離

 

実生活とおおよそ離れ、今は君と揺れるのだ。
「世とはどこを指し示し、誰と答え合わせをするものなのか」

人間活動が長くなればなるほど、迷宮へと入り込む。最中、企業は試作を経て、新鮮味を保つ。今日喰った、カップラーメンのキムたま味だってそうだ。ベースとなる味は変えずに、飾り付けを見たことのない品へ。ほう、「美人は何を着ても美人」とあっけらかんと諸刃の剣的な言葉を残そう。

  

脱線、甚だしいがとかく耳を傾けるのだ。時計の針や加湿器の微々たる音、全て、参加させずに君のノイズだけを喰らう。エロティシズムなどといえば、赤面。埃をかぶれど、溝をなぞる。スマートフォンから言葉を覗きすぎ、言葉狩りに会うという、矛盾と相対しセルフイメージの中にいつもいる。末には抜け出し、浮浪する者も耳を傾ける。満ち足りた因果と契約を交わし、笑おう。駆けずり回るのはやめた。君の音が聞こえないから。

 

祝福は民に近づき、無垢な心の回転はなぜ怖気づくの。喉を詰まらせ何を伝えようとしているの。消費された世界、これから何を投げ、どこへ向かう。希望のある世界、これまでと変わらずに。

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