独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

創作の頭打ちに対して、

創作の頭打ち

 

2年前に比べると、本を読むペースが明らかに落ちた。文字を浴びまくる、多量摂取の日々から抜けていた。内容よりとかく文字を見続けた。
その行為には意味があったのかなかったのか、検証のやりようもない。そもそも本を読むことはいいことなのかどうかも定かではない。シンプルに好きだから読んでいるという感覚で。

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といえども、文体や言葉が織りなす空気感は変化していると自覚がある。年齢のおかげなのかもしれませぬが。小説も久しく読んでいない。それはどういう心情の移り変わりなのかとふと考えたら、ひとつは心のどこかで創作能力が頭打ちしていると感じている。

 

スタイルが固まってきたといえば聞こえはいいけど、「まだ、なんかあるやろ」という希望を胸に抱いている。そんな最近は、「単語」を意識している。
単語を覚えること、専門用語を知ること、そうすることにより、頭に定義が蓄えられ、また違った角度からの思考ができるのではないかと、直感的に思う。

 

常に新しい感覚を欲してしまう。それは繰り返しに恐れを抱いているからなのだろうか。進んでるという実感、生きている感覚に飢えているのか。

考えを巡らしていると、だんだんとマヒしてくる、それは強くなったともいえるけど、距離の取り方を見失っていくような気もする。100の大胆さを持つなら、同時に100の繊細を持つというのが、いい塩梅と考える。

 

バランスを失ったものは、崩れるのが早い。変な強気、とかではなく、自然体でも「出すぎた杭は打たれない」状態になれば、それはある種すごく器の大きい人間なのかと。

なんだかんだで最後は直感に従って行動する。

決意はいずれ日常となり、行動へと移り変わるのだから、根を見つめて。