心象記 -異花受粉-

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

わたしはわたしの道を、あなたはあなたの道を、そうすれば、きっと会える

逢ふせ

 

視野は広ければ広いほど、様々な世界やコミニュティと関係性を持ち、網羅的に・・などと考えておりましたが、果たしてそうなのか。自らの特質ややりたいことが年々ハッキリしていく中で、集約、 収斂されていくのではないか。高校の友達が、なんかの時に、出会いを「自分が進んでいた道に誰かおる感じ」と表現していた。それは、シンプルに「自立」ということでした。私はとびきり人間であり、聖人君子にはなれそうにはありませんもの。

  

罪悪感や優しさを人は持ち得ている、その濃さは性格もあり、計れるものではなく、気分もあり不規則なものなのかもしれない。
幸い、出所の不明な感情が筆を走らせているのかもしれない。毎日少しづつ変わっている、気がつけば大きく変わっているのかもしれない。相変わらずといえば、相変わらずですが、霧が晴れてきた。何かの言説を頼りにする時は、精神的に弱っているのだろう。闇の中で光を手繰り寄せるように、何もなくただ鼓動が早くなるばかりで。

外の世界を変えるのか、内側と向き合うのか。

わたしはわたしの道を、あなたはあなたの道を、そうすれば、きっと会える

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