独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

幸福を願うがゆえに、藝術は存在する

幸福を願うがゆえに

 

自己同一性のない疎外感から生まれる芸術。 

賛否両論あるかと思いますが、満たされた日々に芸術はないように感じる。

救済という意味では、少し宗教に近いものであるのかもしれない。思考や言葉を肯定していかないとやっていけないというか。 

芸術の定義によりけりを踏まえて、生や死と近い存在であり、それを考えたりすることなのかなと、根本はそこだったり。そういう意味では、視野が存在することに気づかない芸大生より下町のおばちゃんの生き抜く力というか、そんなのが芸術に近いのではないかと。どっちがいいとか悪いとかの観点ではなく。

 

だけどこれはある種、自分を保護するために打ち立てた理論なのかもと思いつつ。いやはや、しかし、観念や感覚が似たような人がおってよかった。そういった人が1人もいないと、友達が1人もいないのだから。

 

少数や多数に流されない、深い付き合い、安心して探求してくださいと背中を押されているような、探求に責任感が出てくるような生き方。勝手な背負いだとしても、そうやって時間を紡いでいけたら。音楽、文学、得てして、人が見向きもしなそうなことを真剣に取り組んでいる人々を最近よく見かける、探究者。そういう方は、平場の立場、その付け方の方法が見え、その次に進んでいるのではないだろうか。

 

色々と口走っていますが、自らは正攻法に乗っていると気づきます。ただ、奇をてらう、そのすべての土台は基礎や正攻法にあると思います。最小単位の捉え方がずれると、全てがずれる。1番小さな単位に対してどれだけ客観的になれるか、それが創作というものと今の時点では考えたりしています。

なんやかんや言いまして、人間が前を向く、幸福を求めるがゆえに藝術があるのではないか。その通りというか、私の場合、その通りとして考えていきたい。

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