独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

独り言 または 立ち話。

独り言 また 立ち話

 

共感する瞬間とは何であろうことか。ひとりぽつんと勝手に感じる孤独は何によって作り出されているのか。気の合う連中と生きていく。それはもちろん、ただし心地のいい瞬間にだけ携わる自己都合ではない。得がないから、興味がないから、という理由だけで離れていくのも寂しい。無意識であろうと。 

 

人が人を一つの価値で数値化するのにはやはり違和感がある。資本主義的には指標が必要なのか。ないと成り立ちにくくなるのか、社会という枠から外れて、という考えに至ったこともあるけど、ずっと繋がっててその流れで社会から大切なものを受け取っていると思う。享受したから還元する番。そのためにも、まずは考えないと。流れがしっかりしている、お客さんの満足度の高い、ライブを見た。ライブは非日常を与える瞬間であるとは何度も聞いた、その側面は確実に存在すると思うが、もっと何かあるんじゃないのかとも思ったりする。 

 

こういった前提への被疑から生まれるものは果たしてあるのだろうか。ぐるぐる頭を回していると矛盾を孕んでいることに気づく。自分の感覚を信じているけど、それ一辺倒では。明らかなこともフラットに見られるように、

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