独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

何もない「空白」を眺める。

何もない「空白」を眺める

 

白い画面を眺めて浮かんできた文字を綴る。白い画面をずっと眺めることは普段ない。なぜないのか、合理的な「結果」を求めて行動するからではないだろうか。もしくは快楽を優先する。行動規則は予測の連続から成り立っているのかもしれない。

 

何もない「空白」を眺める。その位置には何もないわけだけど、後ろには何かしらが存在している。だから「空白」を眺めることは不可能ではないのだろうか。そういうささいな疑問は学問がある程度、手法を導いてくれているように感じる。どこかで誰かがすでに考えている。その線の上を辿る。ミクロかマクロか視点の持ち方で、全く同じだし全然違う。視点の大小というよりカテゴライズの規則。疑問の上、身につけた思考。癖のせいか同じようなところに佇む。

  

日々は安心に蝕まれているのか、また、育まれているのか。どちらでも本筋と関係がない、いや、道草は創る木の根を強くするはずだと。東京へ向かう満員電車。画面越しに覗くSNS。動いている、身近なところでもたくさんの人が呼吸をしている。創作は空想的な事象に寄りかかった分、独自の香りがするのではないか。その形は様々なれど空想の具現化である。それは、正しい形をしているわけではない。怖い側面でもあるけれど、どんな歪め方さえも可能とする。まるで虚数のようだ。唯一的なものなど何もない。肯定でも否定でもなく、ただそこに。

 

伝えるためだけの言葉は少し味気ないのかもしれない。感情を統一し走り出す。

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