独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

 何により満ち、何により溢れるか

 何により満ち、何により溢れるか

 

生きる上の手がかりを寂寞に見つけては文学に惑溺した。個人として常に精一杯だったから。いつの間にか少し、文学から離れていた。それは、ナイーブな心を隠蔽する方法を会得したからなのかもしれない。踏み台は個人から全体へと変わりつつある。確実に。世間的な名声もさることながら、私に出来ることは何かないのか。抽象的で漠然な何かが生まれつつある。芯に沿った行動を取っていけば、それは何であるのか理解できるのかもしれない。自分自身さえも未知の世界。心が満ち足りたなら溢れた分は、誰かに回す。いわゆる、他利の精神。

 

環境は十分整っている。整った環境の自分が出来ることがあるはずと。この社会において貧富のわだかまりは決して取れないのかもしれない。場面によっては、そうでないのかもしれない。やはり不変的なものは調和だと思う。復讐心や嫉妬で構築した建造物。されど、建物に居る人のほとんどは建て方を気にしない、幸福の形。
配慮も行き過ぎれば迷惑となる。バランス。そうはいっても、其の先の考え抜いた配慮こそが、人々を包むのではないか。居心地の良さだけでは気持ちは浮かばれない。

 

もちろん、全て単純に捉えられる。どれだけ思慮深さを追い求めても、頑迷のない単純に塗り替えられるのかもしれない。しかし、わからない何かはフツフツと焚かれてきた。遥か彼方からきたのか、そこにあったのか、感覚的なのか、具体的なのか。

何かはわからないけど、この延長線上に有るとは理解できる。野暮ったくじれったくも、時を待つ。

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