独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

依存こそが歴史を紡ぐ

 歴史解釈

 

支配と被支配により紡がれた歴史。散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がするのだと。よく知られた都々逸は今もなお、健在なのではないだろうか。カタカナ語は当たり前のように使用するし、判断の尺度のどこかには異文化が入り込んでいる。そもそも、その地点からしか生まれていないから、何処までが元々あったものか不明だ。8歳の時から20年経過するが文化の変容は起こったのだろうか。自らにも変化が訪れるため、周囲がどうなったのか気づきにくいのか。

 

音楽はアナログからデジタルへと変貌し、データとして入手できる。美しいと聴こえる出力装置。コミュニケーションでもあるメールや動画も2次元チック。文字列に一喜一憂。こう書いていると皮肉と捉えられるかもしれないが、全然そうじゃない。どちらが感情を揺さぶるか、最高の瞬間に会えるか。それぞれにあると思う。 

 

心ベースで考えれば、アナログもデジタルも区別はないのではないか。不変的な真理とはひとつ、人間の性質であるのだから。流行りは移り変われど「流行り」が存在することに変わりはないし、当たり前は当たり前となり気にならなくなる。


ならば何に「依存」するかが重要となり得る。あの人に依存。快楽に依存。我慢に依存。目的に依存。少し大袈裟な気もするが、それぞれの依存が争いを生み、愛を生み、人を生む。人々が紡いできた過去に依存の眼差しを。

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