日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

鳥「今日のささじぃ、クド過ぎー」

 手法の説明

 

大人になると事情を抱える。ほぼ必然であろうほどに。抱えなくとも、周囲が抱える。
それに影響を全くウケないのは難しい。そうだとしてもなんとか朗らかに過ごしていく。穿った見方による倒錯は感性であり、また、ナルシズムである。なにもかも忘れてしまいたい夜とフワフワした状態の交わりに導かれ、梅酒を呑む。

 

また、経験を積むと自分に合うもの合わないものが見えてくる。それは裏を返せば合うものに固執しやすくなる。また、表に戻せば自信がつき説得力が強くなっていくと理解できる。隠れている部分が増幅し溢れ出てきた時、梅酒を呑む。役割だけでみれば労働者も商品であると本に書いていた。マルクスさん。それらを含めた商品はそもそも先に存在し、その繋がりで資本主義社会は成り立っているのではないか、と考えてみる。鶏が先か卵が先かみたいな話。そして、梅酒を呑む。

 

自分自身の思索のパターンについても考えてみる。まず、一つのものを性質として解釈する。性質として解釈したもの「A」と性質として解釈したもの「B」がぶつかり合った時、どうなるか想像する。それらをずっと繋げてどの確率でなにが起こるかを分類していく。そして、梅酒を呑む。

 

最後に「梅酒を呑む」という同じ文を持ってくることにより、リズムができ「終わりよければすべてよし」という効果を発揮したと考えています。同様の意味としては、パターンが読めて安心し「くるかくるかー」と期待し、「キターー!!」となるパターンです。途中は無視しがちという点が同じで同一のパターンです。具体的にニャンコスターさんの手法です。また、「いつもそう」も同様の手法である気がします。要はインパクトの使いどころです。

 

鳥「今日のささじぃ、クド過ぎー」

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