日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

ゴムは伸びきっても、弛みきっても意味をなさないのではないか。

封建

 

様々なコミニュティがあり、様々な人がいる。たくさん人はいるけどコミュニティにはそれぞれ匂いがある。当たり前だけど距離や温度は違う。コミュニティは自分の考え方や生き方に影響を与える。今の自分に近い匂いを心地いいと嗅ぎ分けそこへと入っていく。 

誰しもがそういうものではないかと。選択の本意は主観なのか、背中押された結果なのかはわからない。環境によって育まれる、なんと素敵なことだ。そこに自分だけが育んで来た根があるとより素敵なことではないかと。ただ表面的で過度な迎合は根を絶やす。

ちらっと、ツイッターをのぞいているとこんな言葉を発見した。


「差別はダメよ。おんなじ人間なんだから」
「差別はダメよ。それぞれ違う人間なんだから」


上記は封建的な空気を牽制した言葉。「封建的な空気、それ自分が勝手に感じてるだけじゃあねぇ?」みたいな論調もございます。「言えてる」と納得する反面、大多数がその空気を感じるのなら存在するのではないかと。

 

封建的だからこそ、秩序が保たれたる。その分、革新が減ってしまう。「秩序」と「革新」は比べるものではなく、共存させてなんぼと感じる。ゴムは伸びきっても、弛みきっても意味をなさないのではないか。そんな年末、考察。

 

封建的な空気自体が悪いかどうかは分からないけど、磨けるべきスキルがおざなりになるのではないかと。個性をかき消す「空気を読む」は不必要!と感じるけど。それだけじゃあ浮かばれない。そんな場面をシュッとやり過ごすのが一人前な気もする。と、私が心配せずとも本人の自由意思の元だけど。

 

足るを知り、頼るところは頼る。人はもっと自由に羽ばたける。

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