独りぼっちのささじぃ。

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。日々、文字を連ね言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。結果、物書きとなる。

奇形(特殊)だからといって差別するのはいけないという理性(倫理観)」と「どうしてもグロテスクと思ってしまう感情」の対立。

哲学対話の会への誘い

 

聳え立つビル群、人ごみをかき分け進む。群雄割拠のこの時代、1億人のうち一体何人がLINEをやっているのだろう。老いも若きも、明朗な緑色を通して連絡を取るんだ。

 

椅子に腰掛け、ファミリーマートで買った薄味ポテトチップスを食べている時、「哲学対話の会」というグループラインの誘いがあった。興味深い。一つの話題に対し色々と対話を重ねていくというスタイルを貫くっぽい。心の中で猛虎を奮い「参加」を押してみた。

 

一つ目に提供されたのがこれだった。自分なりに思ったことを書いてみます。

 

奇形の顔「受け入れられない」家族が手術拒否、ミルク飲めず赤ちゃん餓死

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171105-00010000-yomidr-sctch

 

まず「醜いのは美しいより悪しきこと」という世間の価値が前提にあると思う。かといって、自分がその価値に侵されていないかというと・・やはり、侵されている部分はある。この記事を読んで思ったのは「奇形(特殊)だからといって差別するのはいけないという理性(倫理観)」と「どうしてもグロテスクと思ってしまう感情」の対立だと。それは、一人の人間の中で戦わされてしまうもの。

 

大多数の人が湧いてしまう感情、心はコントロールできないので、これは非常に難しいと思います。この医師の方は倫理感が強そうで、やはりその倫理感を作ったのは「命」に対しての価値観なのかなーと感じました。

 

すごく繊細で難しい問題。喜び・悲しみ・驚き、生きること。自戒。解放。「生きるべき」かどうか・・「生きるべき」というはっきりとした理論的な軸は見つからないけど、ほぼほぼの人間がそう思うこと、つまり「常識」の観点から見れば「生きるべき」と思う。それさえも、個々人の意見という。医師という職業は「生と死」のそばなので、私たちとは命に対する捉え方や感覚が違うのかなとかーも思いつつ。

人は基準がないと生きていけないのに、基準が問題を起こすというパラドックス

 

人と人が生きやすいように、「契約」という概念から常識は作られたのか。常識を疑えとよく言いますが、常識は秩序である時もある。(ない時もあるけど・・)

常識を疑いすぎると、いつのまにか混沌に浸かっていたりする。

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