「草臥(くたびれ)と酒の酔い」この一文から軽い考察をしてみたよ。
草臥と酒の酔い
ふと、森鴎外の小説を読んでいた。確か不倫の話だったかな。中年の既婚している女性が学生に惚れていく的な話だった。話の筋とは関係ないけど「草臥と酒の酔い」という言葉に出会った。なんか、字面がカッコよくて忘れられない。多分、この「草臥」の漢字の清々しさに喰らっている。
草臥と書いて「クタビレ」と読む。クタビレと酒の酔いって、全然破滅やん!と考えるけど、字に起こしてみると、そんな匂いが全くしない。
ここから、言葉自体の意味と字面からもらう印象は別物なのだなと。
「あ」の形は「あ」を意味していると、知ってしまっている。しかし、先入観を抜きにして「あ」を眺める。「あ」を形として眺めるのは、いい思いつきと思ったけど、フォント次第で印象変わるがなと。
まあ、それは置いといて形に注目しよう。
基本的に漢字はカッコいい。ひらがなは柔らかい。ひらがなのれんぞくがきもちわるくみえるのはよみにくいことをしっているからだ。形だけをみるとどうだろう。
・・もはや、形だけを捉えることはできなかった。
次、草臥と破滅。草臥と誘い。草臥と庶り。草臥とフカヒレ。2つ熟語を並べて、そのバランスが絶妙だと、何かとタイトルっぽくなる法則が自分の中にある。
では、そのバランスの良さとはなんなのか。やはり、意味で考えているのか。先ほど挙げた「草臥と破滅」を考えてみる。これはあまりよくない。くたびれる延長戦上に破滅がある。つまり、「草臥と破滅」は連想しやすく意外性に欠けてしまう。
草臥と遮りは好きだ。草臥にどう遮りが介入するのか、パッと思いつかない。くたびれる側が遮るのか、くたびれるを見ている人が遮るのか、また、遮るのか、遮られるのかも曖昧だ。
この余白に創造の自由がある。だから、「草臥と破滅」より「草臥と遮り」のがいい。
ただ、これらは「想像を膨らませるものがより好ましい」という前提のもとに成り立っている。 「だから何?」ということを今日も考えてしまっている。さて、ウィスキー飲もう。