日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

過去とは、未来とは。

過去とは、未来とは

 

過去とは。

過去は過去で確かに存在したはずだ。それは、しっかりと写真にも残っている。写真を見ると記憶も蘇る。それは事実の証明になり得るのだろうか。もちろん認識しているわけだけど、同じところで働いて、毎日顔を合わせていたのに会っていない人がたくさんいる。

携帯電話を触れば、様々な情報がある。それは、距離を越えてすぐにコミュニケーションが取れる。人に会うというのは、時間がかかる。だからこそ、濃密であり有意義なのかもしれない。

 

1年前か2年前か、1年の単位がだんだんと短くなっていく。過去とは。過ぎ去った時間、ただそれだけか。過去に会いにいくところに、何か落ちているのか。同じように1日24時間が流れていたはずが、都合のいい楽しい瞬間が思い出される。過去は風化し美しさだけが残っている。

 

未来とは。

未来とは、まだ起こりえていない時間。1秒後も、数年後も未来という枠に収まる。思い描き方もだんだんと変化していく。未来に足を進めても次の未来がやってくる。とにかく忙しいもの。定まりきった地点ではない。素直に単純に言葉の装飾を剥ぎ出した。残りは駄文か、イーブンか。

 

削ぐことなのか、飾り立てることなのか。何か問われるているような。削いでみたり飾ってみたりでは、中途半端な代物が出てくるのではないか。現在の選択が未来の担保。

二元論は浅はかだけど、時にふたつからひとつを選びとらなければ未来もそっぽを向く気がした。未来はずっと、動いて質問してくる。

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