日記

ある日、おじいちゃんに「客観性に収斂せよ」と説かれ、言葉の存在意義を考え始める。言葉の持つ諧謔性・残忍性・恣意性に導かれる。 - 総合芸術家集団「auly mosquito」 代表 http://auly-mosquito.com ・HomePage http://so-sasatani.com

コンバンハ。夜という時間は不思議ですね。

夜の愉しみ

 

喧騒に絡まる少女は誰かに飼われた顔をしている。

それを見つめる自分の目は、重なる手は、堂々たる態度と否応なしに思わされる。切り取られた空間とともに、くしゃっとして笑う。すれ違いを前提としたその心理は、いささかの不安をも知らない。もしくは、唯一を隠す術であるのか。

 

しかし、生活のための生活は感情を抑止するというのは、あまりにも主観的な思い込みだ。むしろ、一定の容量からこみ上げ溢れるものである。取り繕われた言葉なのか、こぼれ落ちた言葉なのか会話からは一切の判別がつかない。少女はある意味でプロフェッショナルだ。それゆえに情感の秘訣は、原理は、といった疑問が浮かぶ

 

東京の夜の街はいたって、健全だ。煌々としたネオンは酔い人を運ぶ。

出口、安心、快楽、哀愁、何を求めてもいいのだ。明けるとも知らずに求める者は夜に迷う。夜は葛藤と簡単に折り合えるから、求めてしまうのだろうか。プラットホームで夢中に話すのも、ひとり部屋で泣きじゃくったとしても本当はそこに大差はないはずだ。

 

素直な表現方法を「黒」に委ねる。夜の在り方は捻るだけ出てこようと、それぞれに一つしかない。天井から糸で吊るされ変形しようとも、交わりはしない。間に張り巡らされているのは、いたって人間模様。決してぶつからないように気ままに夜を堪能する。コンバンハ。

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